記憶と記録をつなぐ~熊本地震 震災日記

2021年06月15日

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わたしは熊本生まれ。森の都と呼ばれる熊本にちなんで父が名前を考えてくれました。(だからサムネイルはこの画像🍃)

小学校に上がる前、よくお隣のお宅に勝手に遊びに行っていました。お隣にすむおじいちゃんとおばあちゃんはいつもお菓子🍭を用意してくれていて。わたしはおじいちゃんと一緒に新聞を読むために行っていたんです📰。勝手に玄関を開け、勝手にあがっていって、縁側でいつも一緒に新聞を読んでいました。親戚でもなんでもないのに、かなり押しかけていっていましたが、本当によくしていただきました。私の中では”熊本”はあったかいところ。そんな場所を2016年、突然おおきな地震が襲いました。

熊本地震 震災日記として(2016年10月再掲)

 2016年4月14日午後9時26分、熊本県熊本地方を震央とするマグニチュード6.5の地震(前震)が発生し、熊本県益城町で震度7を観測しました。その28時間後の4月16日午前1時25分には、同じく熊本県熊本地方を震央とするマグニチュード7.3の地震(本震)が発生し、熊本県西原町と益城町で震度7を観測しました。人的な被害、家屋や工場、農地などの物的な被害は大きく、お住まいになられている人々にとって本当に大変な災害になりました。

 高橋恵子さんは、有限会社せせらぎの代表として、熊本県上益城郡でグループホームやデイサービス事業を運営されています。熊本地震の体験を通じて得られた、SNSを使った情報受発信の有効性や、記録に残すことの意義・重要性について語っていただきました。

グループホームせせらぎ 代表高橋恵子さん インタビュー

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――熊本地震では大きな被害となりました。高橋さんは4月14日の前震の際には台湾出張中で不在にされており、翌15日に熊本に戻られています。本震が来たのは、その直後の16日未明でしたね。

「本震が来た時、本当にこのまま建物が潰れて入居者の皆さんと一緒に死んでしまうんじゃないかと思いました。実際に家が全壊したスタッフもいます。幸い、地震による怪我人も出ることなくなんとかその場はしのぎました。」

――しかしそこからが大変でした。

「せせらぎは中小規模のグループホームを運営していますが、スタッフは私を含めて10名です。本震以降は全員で避難所に移り、スタッフは一泊二日体制で常に3名態勢で勤務してもらいました。私自身も10日間連続勤務だったし、何より慣れない避難所生活と繰り返し起こる大きな余震で、そこにいた全員が強いストレスの中に置かれていたと思います。」

――大きな災害が起きると情報が錯綜して何が正しい情報か分からなかったり、即座に伝わらなかったりということをよく聞きます。当初現場ではいろいろな事態が発生したと思いますが、「情報」という観点から当時の状況はいかがでしたか。

「とっさに、「これは後々のためにしっかり記録に残しておかないといけない」と感じました。すべての状況を写真に残していこうと決めて、スマートフォンで撮り続けました。電気ガス水道などのインフラは止まったけど、避難所には発電機があり充電ができたので助かりました。」

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――情報を記録するという点では、やはり写真や動画が一番手早かったと。

「非常時に動き回りながら、暗い場所でも記録を取り続けるのはメモ帳でもパソコンでもなく、やはりスマートフォンが一番よかったですねぇ。写真を撮るだけでなく、メモを書いたりしなければならなかったですから。あとで聞いた話ですが、私がスマートフォンで写真を撮り回り、文章を打っている姿を見て、こんな大変な時期に代表は何をやっているんだろうとスタッフは疑問の目で見ていたみたい(笑)。

それと、記録だけでなく、避難所からの情報の受発信という点でもスマートフォンがあって本当に助かりました。地震直後の混乱で滞っていたのか、救援物資の配給がなかなか来ませんでした。何も食べるものがなく、真剣にこのまま飢え死にするんじゃないかと思ったくらい。そこでFacebookを使って、いまどこで何が最も必要で物資であるのか情報を発信しました。その投稿を見た人たちから救援の手を差し伸べてもらいました。」

――東日本大震災以降、SNSが情報のやり取りに大きな役割を果たすということがよく取り上げられます。

「インフラは止まり電話も通じにくかったです。でもSNSはずっとつながっていました。TwitterでもLineでもよかったのですが、入居者の家族の皆さんや全国のグループホーム関係者と情報共有する必要があったので、どこの誰と会話しているのか判別しやすいFacebookにしました。現場の状況を写真に撮り、文章を入れてアップすることで、多くの方がリアルタイムに状況を理解してくれたと思います。よく言われるように、1日経つごとに必要な物資は変わっていきます。最初は水。そしてすぐに食べられるおにぎりやパン、衛生用品などです。でも1週間経ってくると新鮮な野菜などどうしても欲しくなってくる。その状況を正直に、なるべく正確に書いて発信することで、スタッフや入居者の方々の身体と精神の健康を保ちたいと考えていました。

その時は本当に難しい状況でした。せせらぎのことを心配してくれていた人たちから、日中だけでなく夜中にも安否確認の電話がひっきりなしにかかってきました。電話対応だけで時間がなくなってしまうという悪循環になってしまったんです。それもあって、なるべく私たちの状況を心配されている外部の人たちにできるだけ詳しくFacebookを通じて発信することにしました。かかってきた電話に「情報はFacebookで公開するからそれを見てほしい」と伝え続けました。

混乱した中でいろんなことを考えてしまって、私もスタッフもみな気持ちが落ち込んでいたと思うんですけど、でも、Facebookに記録を残していくという作業自体は、ちょっとした気分転換になりましたねぇ。」

――高橋さんの投稿記事を見ると、他県から福祉関係者の皆さんの支援もたくさんあったようですね。

「苦しい状況の中、投稿記事に対して多くの方が励ましのコメントを返してくれました。個々にやり取りする時間はなかなか取れなかったんですが、そのコメントにどれほど勇気づけられたか。今でも読み返すと涙が出てきます。

グループホームで認知症の方を介護するのは専門知識と経験が必要です。近県はもちろんのこと、はるばると石川県など遠方からやってきてくれた仲間の支援には感謝の言葉がみつからないほどです。本当にたくさん助けてもらいました。

いま振り返って考えると、当時混乱した状況のもとで私を含めてスタッフ全員が本当に身も心も疲労の極限にあったと思います。スタッフ同士で話していると、あの時に誰が来て、何をしてもらったのか、どんな話をしたのかということが、記憶からすっぽりと抜け落ちていることが互いにたくさんありました。落ち着いた頃にFacebookの投稿を見かえして、ようやくそのシーンを思い出すことができたりして、ようやく笑い話として語り合ったこともありました。」

――当社の注文履歴によるとハピログにご注文をいただいのは4月28日のことでした。

「震災から2週間経とうとしていたとき、ふと、Facebookに投稿している記事をそのまま印刷製本できるサービスないかと思い、すぐにインターネット検索してハピログにたどり着いたんです。グループホーム関係者や行政にも読んでもらいたいと思いすぐに10冊注文しました。」

――地震直後の熊本から10冊同時にご注文があり、そのときにすぐに高橋さんに連絡を取らせていただき、現場の状況やハピログをご注文いただいた経緯をお聞きしました。お電話でしたが、これが高橋さんとの最初の出会いになりました。

「ハピログが手元に届いてすぐにスタッフと一緒に読みました。私はいま「記憶が風化するのはその人たちの記憶から」と感じています。ハピログフォトブックを見た瞬間、一緒に支えあって乗り越えてきた日々、支援してくれた人たちの顔、時には理不尽な状況への怒り、全国から差し伸べられた暖かい支援の手などが一気に脳裏をめぐりました。Facebookがハピログになってはじめて記憶になったと感じました。

Facebookが良かった点は、写真と文章を多くの人と共有しやすかったこと、分量をたくさん書けること、実名での双方向のコミュニケーションがとりやすかったことです。これが本になることによって、地震直後に考えた「記録に残す」ということができたし、それが自分たち自身の記憶にもなったんだと思います。」

ハピログだったからできたこと

ハピログ社では、Facebookを本にして多くの方に手渡し読んでもらうことで、震災に遭ったグループホームで何が起き、職員はどのように考え行動したのかということを知ってもらいたいという高橋さんの思いに共感し、企業として可能な限り協力したいと考えました。ただ小さなベンチャー企業一社の力では限界があります。フォトブック事業でパートナーシップを組んでいる富士ゼロックス株式会社マーケティング部杉田部長にすぐに相談し、あわせて富士ゼロックス熊本株式会社様、株式会社アクセス様にもご協力をいただくことによって、1,200冊のハピログフォトブックを寄贈することができました。

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(フォトブックは当時の製本タイプ)

2016年10月1日、札幌で開催された「日本認知症グループホーム大会」には全国から1,000名近い参加者が集まりました。高橋さんは震災時の功労について特別表彰を受けられています。参加者の手元にはせせらぎが体験した震災の生々しい記録が一冊の本として渡りました。高橋さんは、「それまでは自分が支援側だった。でも実際に支援を受ける側になってみて、普段から備えは必要だし、緊急事に互いに援助しあう仕組みや連絡手段はあらかじめ整備しておかないといけない」と考えています。「その準備の重要性を、せせらぎの記録を通じて自分のこととして受け取ってもらえれば」と高橋さんはおっしゃいました。

SNSに投稿した写真やテキストを、日時情報などとともにそのままの形で本として残す。ハピログによって、人びとの記憶、組織や地域の記録を次代に残すお手伝いをこれからもしっかりやっていこうと、私たち自身が思いを新たにしたインタビューとなりました。

益城町の避難所にて

2016年5月上旬。まだまだたくさんの方が体育館にもグラウンドにも非難されておられました。ここは体育館で私たちがそこにいる間、いつも誰かが床にワイパーをかけ、靴を並べ、箒でお掃除しています。この時はちょうど母の日が近かったので、たぶんそのカーネーションが飾ってあったのだと思います。

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その避難所におられたおばあちゃま。サッカー日本代表だった巻誠一郎選手(益城町出身)からもらったというサインを、とてもうれしそうに「巻、知ってる?これもらったんだよ」って見せてくださいました。サインでこんなに笑顔になるなんて、こんなに元気に自慢してくれるなんて!とこちらまでうれしくなったのでした。大変な時なのに、避難所では、別のおばあちゃんは「このミカンおいしいから持っていきなさい」ってくださったり、本当に熊本県人はあたたかったです。

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グループホームせせらぎ https://seseragi.care.kumamoto.jp/

Facebook https://www.facebook.com/seseragi5511/

(再掲)―――

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